母の塗り絵 1 2013-2016

ドイツに滞在したとき、細密画のような花の塗り絵を見つけた。花の好きな母は嬉々として作業し、その完成度の高さに周囲を驚かせた。

                   2013年 ミュンヘンで


     左側が見本、右が母が塗ったもの

                  2016年ワイルハイムで

写真 2 結婚前

残念ながら母の家族には写真が得意な人がいなかったらしく(母自身もそうだったが)、結婚前の母の写真はあまりよいものがない。もちろん、戦争という時代の影響はある。

私の手元にある、戦後に撮られた母の若いころの写真は、疎開先(高岡、氷見)でのものと、大阪で働いていたころのものだ。ワンピース姿の母は、頼まれて被写体モデルをしていたと推測する。

結婚前の母と父。

写真 1 結婚式と新婚旅行

母の結婚が遅かったのは、戦争の影響もあっただろうが、 それよりも母は祖父に対しての親愛が深く、同年代の男性への関心がなかったためだと思う。母と父は大阪で知り合った。当時の東京は焼の原で、父は同族会社の大阪支社で働いていて、母は疎開先の高岡から京都に住まいを移し、大阪の料理屋でアルバイトをしていた。職場の同僚と父の一番下の弟である叔父がその料理屋で母を見て、まだ独身だった父に引き合わせたのが出合いだったという。叔父の話では、母はとてもきれいな人だったから、父は一目ぼれだったそうだ。

ファザコンの母は結婚に迷いがなくはなかったようだが、結婚式とその後の新婚旅行での写真を見る限り、やはり父のことが好きになっていたのだと思う。

スケッチブックから 1 1985年ごろ

祖父、池田永治の希望で絵を習うことはなかったが、母には画才があった。80年代半ばか後半から、母はグループ80という会に入って絵を描いていたらしい。私は日本にいないことが多かったし、当時は何よりも自分のことに夢中だったから、どういう会でどういう人たちと一緒だったのか、恐らく母が話しても聞いていなかったのだろう。

短歌ほか 2016年

ゴミ出しに行けば子連れの若夫婦我にほほえみ挨拶をせり

母の日記。起きたこと、話したこと、思い出したこと。好きな絵や新聞のコラム、好きな有名人の写真などを貼っていた。

年月不明の歌いくつか

見覚えのある着物 まといし亡き母を抱き上げたる夢みた ある日

祖母と我 言問橋を渡しけり 今は昔の墓参りかな

寒き日もまた良いものか 熱々の焼林檎食べ温まる午後

暮れに子は包丁並べて砥ぎいたり すること何か我が夫に似て

寿の字の傾きたる正月の御供へ飾り今日で三日目

年女と人に言われて気づきたる娘はすでに三十五歳

酒飲みて太平楽を決め込みし夫の過ごす寝正月かな

月日たち絵にのみ残る桃源郷 父の描きし農家の庭先

短歌ほか 2015年

新聞をやっとことりに行きにけり

オレンジのシャツ着せられしその人の顔見るに耐えずチャンネルを切る

大輪の花びらそりし赤椿その豪華さに脱帽す

今はただ拝むばかりの花見かな

手づかみでカボチャつまみて感無量

台風と地震なき日の有難さ

ドイツでは動かぬものよ我が家とは

子の帰りいばりしながら祈りけり

思はずがっくり帰国と云はれうれしくないわけはないけれど

ひたすらにクッキーを食べるひたすらに食べるほかより楽しみのなし

若き日の夫の写真のつつましさ此の頃特に感じみるかな

わがそばの椅子にうずくまるモモよモモ生きているのか死んでいるのか

蠅のやつとまるとこなく我が頭にくる

問題は年賀状なりどうすべえ書きたくもあり書きたくもなし

子の顔をみるまで我の不安かな

補聴器をわれにつけて出かけし子の買い物

短歌ほか 2014年

水俣の歌よまれたる陛下思はず我は手を合わせけり

我が家の門先掃きて清めたる今は亡き人恋しかりけり

お参りもせず帰りたる神社かな

ひたすらに我が子の帰り待ちつつありぬ

爪切られモモしょんぼりとしてるかな

かしこい猫よちんまりとストーブの前に座りおり

高尾山行きて帰りし子の土産有難く我仏壇に上ぐ

消費税8%で生きれるか

明日のこと皆目わからぬ日をすごし

子の帰り待ちつつあれば虫の鳴く

暑き日の帰りの遅き夕暮れはひたすら無事を祈るのみなり

森林につづく窓辺を走るように駆け抜けてゆきし人影をみし

云わなくてよいこと云ひしを少し悔い

ただ一人残りし友に去られけり

カーテンが動くとモモを想いけり

あすも傘あさっても又傘マーク外に出られぬおのれか

四時ごろか時計をみればまだ二時なり

高倉健死んでやることみな忘れ

映画みる能力も我失せしかな

不肖の子それでも許すおやじかな  (春雷にきも座りおり不肖の子 永治)