短歌 1969年

2月27日

粉雪の降りしきる中を 病院へ急ぐ 心の重き検査日

銀世界 子らに見せたく思ふかな 車中より見る多摩川園前

4月4日

経典を読み入る友は月曜の手術ひかえて明日は髪剃る

4月5日

髪染めて心残りはなきにけり 清雄寺をば我はめざして

4月6日

母上の冥福祈りて入信の道を進むを誰がとがめん

春宵や人力車見ゆ采女橋

春宵や れんぎょうの 黄のさえにけり

れんぎょうの 黄の美しさ 春の宵

4月7日

見下ろせば柳れんぎょう采女橋  (嘉納ちゃんに捧げる)

我が手術 友の手術も御仏にすがりて無事に終わりたきかな

春愁や手術はのびて何時の日ぞ

春愁や 手術ののびて 泪ぐむ

泪ぐむ 窓外に見ゆ 春日射 (藤井先生より貧血のため手術ののびること知らされる)

手紙書く気力も失せぬ 春の宵 手術延期を知らされし我は

無事手術すみしとききて安堵しぬ 三時間にもわたりしときく(神野さんの手術が終わって)

髪剃りて脳下垂体摘出の手術をすませし君すこやか

4月10日

めざむれば うすら寒きや 春の床

寝苦しくなく ねむりたり 春の床

洗面の いまだつめたき 春の水

春風に ふとさそわれて 禁断の 屋上にまた登りたく思ふ

4月11日

春雷にめげず生きぬく不肖の子

することもなく バナナ食ふ 花曇り

外泊の許すを待つなり春の雲

伊達締めと辞書を書いたし春の空

まぶしくも 又悲しくも 春日射

外泊の許可うれしきや春の風

4月16日

うなされて夢物語る春の雨

病める身に恋はむなしき四月かな

窓外に 若葉のゆれる めざめかな

春雨に もの思ふこと やや多く

4月16日

うとまれてさびしかりけり その人の今日の退院 雪しげく降る

4月19日

恋なれど 童女の如く のびやかに 我これよりも生き続けたし

くらやみの 中ゆく如き我が命 かすかな望みありやなしやと

4月23日

春雷に 恋の花びら 散る夜かな

4月25日

問い返すひまもあたえず去る君にきびしき君の心知るかな

子育ては花づくりとも似たるかな 丹精こめし腕のみせどこ

人たよる気持ちを捨ててこれからは吾子らのため生きんとぞ思ふ

4月26日

いざり寄りし ギプスの足の我が子の声 電話にきっていとしかりけり

はげ鷹の如く並べり屋上のてすりにとまりて餌待つ鳩等は

笑ひ声背にして部屋に飛び込みてベッドに坐してしゃくりあぐ我

日曜にしますとわれにことわりし我が手術せし医師のあかるき

4月27日

鉄のたが はめられし如左胸人の身体をあやつる如く

中庭の若葉眺むる夕暮れはベッドに臥して悲しかりけり

病室にあかりともりて部屋べやはスポット浴びし舞台の如し

いつまでも又いつまでも 検温器くわへて永き春の宵かな

4月28日

咳さえも自由にできず 鉄板を押しあてられし わが胸なれば

めざむるは何時も三時の十五分 それより後は 夜の明くを待つ

しゃくやくのあか なやましき あしたかな

乳一つのグロテスクなるわが身体 見るにしのびず ふと目をそらす

抜糸せし 赤黒き糸かきあつめ 我がコレクションに持ち帰るなり

4月30日

葉桜に何時しかなりぬ 病院の緑の園に鳩のえさはむ

風かほる五月の窓をゆずるかな

5月1日

検温器くわへしベッドに朝日さす緑目にしむ心地良き朝

5月2日

恋病みし寝床かはりて五月かな

ハイアミン液浸したるがーざにて乳一つなる傷の胸うつ

退院の日の近づきて苦しみはいや増すばかりおろかなる我

5月3日

寝苦しき夜の明けぬれば新緑の心地よき朝我を迎ふる

退院を友に知らすを気づかひぬ友より後に手術せし我

振り返へり振り返へりつつ手をあげて夫わたり往く采女橋かな

采女橋見送る我に手をあげて振り返へりつつ夫かへりゆく

5月5日

病院の窓にも小さき鯉のぼり

パイナップル重きをあげて振り返る帰へりゆく夫我送るとき

夕暮はふと悲しくてなげれ来るトランペットに過ぎし日を追ふ

あきらめし恋にはあれどたそがれのトランペットに我が胸うずく

薄黄なるスポーツシャツののぞきたる白衣の医師は若くすこやか

5月6日

七人の子等すこやかに育てたる母なる人の幸せをみる

会ふことはなきとあきらめいし人に呼び止められし嬉しき日かな

両手より両腕にぎり我が腕の浮腫ためしみる君のかいなよ

君の手が我が両腕をしっかりとつかみて浮腫をしらべ給ひき

両腕をしっかと君につかまれし浮腫の検査に我が胸さわぐ

5月7日

退院のきまりし朝は何となく落ち着かずしてベッドにもぐる

5月13日

日焼けせし老女等の群駅にみし日雇婦らの遠出なりしか

5月14日

我が夫のひどくいたみし靴底に詫びる気持ちで靴みがくなり

おろかしき人間なればあやまちのいくつかあらん君責めまじき

5月17日

あどけなき少女の如き面差しの母おさな子に乳あたへおり  北千住行き地下鉄にて

我が胸のつかえのおりし心地かな十日振りなる君をみしとき

何気なく左手首をつかみいき ただそれ丈の君忘れまじ

何となく面やつれせし君なりき病のあとの残れる如く

今一度会いたき人に三月後に来よと云はれて悲しかりけり

雨すでに止みたる如し悲しみを何か残してもの思ふ夕べ

5月18日

片足で立つ吾子哀し両の足使ひて歩く日は何時のこと

5月23日

砂浜に打ち上げられし魚のごと我眠るなり同じむきにて

6月2日

夫われの乳房一つを淋しと云ふ悲しみの更にひろがる夜半

忘れ物せし吾子もどり苦しげに水飲みており涙うかべて

7月30日

三時よと吾子我起こす約束の時間についぞ起きることなし

風しげく雨戸しめたる部屋に我眠るを吾子の起こしに来るなり

8月6日

右胸の奥にひそめる痛みあり 黒き不安は我を悩ます

8月7日

きず口を我いたわりてうすき夜具かけて眠りぬ海の家の夜