短歌 1991年 春

BERCONと書かれし銀の小さなる異国のマッチ花火の如し

オレンジののうぜんかづらみに行きてふうせんかづらの種もらひけり

雑草と化したる白き小さき花ブライダルベールは狭庭を埋む

風邪のわれ甘酸く臭ふ孫抱きて子の帰り待つ重たきかなよ

新しき帽子買ひしと友云ひぬ会ひたる時にかぶり来ずして

ガマ蛙池こはされてい居るところなきや隣家の池で啼きをり

ひたすらに歩めと医師にいはれたる友と行きたり赤札仁王

あくびする人の多きよ我も又つりこまれたる春の電車は

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雲間より地表見えたり海底をのぞくが如きいづこのくにぞ

機上より大地を見たり十時間たちて地球は懐かしきかな

人の住む町見ゆ森も川も見ゆいよいよ降りるチューリヒの街

この家に宿りてみれば便り出す心そぞろになくなりしかな

短歌 1990年 

涼しげな緑の池よカイツブリ

愛らしき少女連れたる父親は花火の袋もちて寝ており

おしろいの花の匂いはなつかしき幼き頃の夕涼みなを

赤リュックかたへに置きて父親は幸せな眼で息子見ており

降りる駅間違へたれば引き返し笑みかはしおる喪服の夫婦

子がおきてゆきたる赤きサンダルをはきて出掛けん自由が丘へ

クーラーの車内を出れば熱帯の真っただ中に飛び出す如し

風呂場にて鈴虫鳴くと子は言ひぬそれらしき音を吾も聞きつつ

松桜梅の木陰に月をみてうたた寝をしぬ雨戸しめずに

チャルメラの音淋しげにきこゆなり夜更けて一人くりやにあれば

蝉しぐれ耳を聾するま昼間を深山にある心もて聞く

眼に汗の入る残暑も洗濯と炊事場洗ひす少しは涼し

ゴキブリは夜のギャングよ殺虫剤つかみたれどもその手動かず

仏壇に朝顔そなへ亡き母の笑顔がふっと重なりてきぬ

静かだなあ夫は云いぬ感こめて娘夫婦の出かけし連休

眼も悪くなれりと云いて出されたる菓子箱のふち小蟻這いおり

手伝はんとすれば拒絶にあふことの多く同居のむつかしさかな

我が旅は始まれるなり妹の形見の黒のカーディガン着て

妹が若き命を捨てんとし見出されたる山崎すぎし

懐かしき父母眠る新しき東太田の墓地訪れぬ

幾たびもつぶれかけたといふホテル豪壮な庭に心奪はれぬ

弟がうたによみたる義母岳父我もまみえて嬉しかりけり

山海の珍味多くていただけぬ分に心を残してじせり

目先なることにとらはれ忘れいしつぐなふべきこと多々ありし我

弟に案内されきし父母の墓前に我は何を誓はん

妹と共に歩きしこともあり新神戸駅今たたんとす

幾度か妹送りきてくれし新神戸駅に我はあるなり

此の駅で別れしことが夢のごと思い出さるる妹のこと

新神戸去るとき哀し妹と別れる如く泪あふれぬ

短歌 1970年

岡藤銀子さんを西荻窪に見舞う

高円寺阿佐ヶ谷又東中野 妹につながる想ひ出はみな悲しい

高円寺また阿佐ヶ谷と悲しみの記憶の糸をたぐる駅名よ

新婚の妹住し東中野たづねし想ひ出数多くあり

9月27日

子に頬を寄すれば泪あふれ出ず泉の如くつきることなく

9月26日右乳にしこりあることを医師に認められた

蓮の葉にころぶるつゆに似し泪 いくすじも落つ シーツぬらして

9月29日

ふと夜半に目ざむるときのおそろしく 枕の下に数珠入れてねる

つややかに風呂上りなり母の顔 ふとまどろみし夢にみるかな

短歌 1969年

2月27日

粉雪の降りしきる中を 病院へ急ぐ 心の重き検査日

銀世界 子らに見せたく思ふかな 車中より見る多摩川園前

4月4日

経典を読み入る友は月曜の手術ひかえて明日は髪剃る

4月5日

髪染めて心残りはなきにけり 清雄寺をば我はめざして

4月6日

母上の冥福祈りて入信の道を進むを誰がとがめん

春宵や人力車見ゆ采女橋

春宵や れんぎょうの 黄のさえにけり

れんぎょうの 黄の美しさ 春の宵

4月7日

見下ろせば柳れんぎょう采女橋  (嘉納ちゃんに捧げる)

我が手術 友の手術も御仏にすがりて無事に終わりたきかな

春愁や手術はのびて何時の日ぞ

春愁や 手術ののびて 泪ぐむ

泪ぐむ 窓外に見ゆ 春日射 (藤井先生より貧血のため手術ののびること知らされる)

手紙書く気力も失せぬ 春の宵 手術延期を知らされし我は

無事手術すみしとききて安堵しぬ 三時間にもわたりしときく(神野さんの手術が終わって)

髪剃りて脳下垂体摘出の手術をすませし君すこやか

4月10日

めざむれば うすら寒きや 春の床

寝苦しくなく ねむりたり 春の床

洗面の いまだつめたき 春の水

春風に ふとさそわれて 禁断の 屋上にまた登りたく思ふ

4月11日

春雷にめげず生きぬく不肖の子

することもなく バナナ食ふ 花曇り

外泊の許すを待つなり春の雲

伊達締めと辞書を書いたし春の空

まぶしくも 又悲しくも 春日射

外泊の許可うれしきや春の風

4月16日

うなされて夢物語る春の雨

病める身に恋はむなしき四月かな

窓外に 若葉のゆれる めざめかな

春雨に もの思ふこと やや多く

4月16日

うとまれてさびしかりけり その人の今日の退院 雪しげく降る

4月19日

恋なれど 童女の如く のびやかに 我これよりも生き続けたし

くらやみの 中ゆく如き我が命 かすかな望みありやなしやと

4月23日

春雷に 恋の花びら 散る夜かな

4月25日

問い返すひまもあたえず去る君にきびしき君の心知るかな

子育ては花づくりとも似たるかな 丹精こめし腕のみせどこ

人たよる気持ちを捨ててこれからは吾子らのため生きんとぞ思ふ

4月26日

いざり寄りし ギプスの足の我が子の声 電話にきっていとしかりけり

はげ鷹の如く並べり屋上のてすりにとまりて餌待つ鳩等は

笑ひ声背にして部屋に飛び込みてベッドに坐してしゃくりあぐ我

日曜にしますとわれにことわりし我が手術せし医師のあかるき

4月27日

鉄のたが はめられし如左胸人の身体をあやつる如く

中庭の若葉眺むる夕暮れはベッドに臥して悲しかりけり

病室にあかりともりて部屋べやはスポット浴びし舞台の如し

いつまでも又いつまでも 検温器くわへて永き春の宵かな

4月28日

咳さえも自由にできず 鉄板を押しあてられし わが胸なれば

めざむるは何時も三時の十五分 それより後は 夜の明くを待つ

しゃくやくのあか なやましき あしたかな

乳一つのグロテスクなるわが身体 見るにしのびず ふと目をそらす

抜糸せし 赤黒き糸かきあつめ 我がコレクションに持ち帰るなり

4月30日

葉桜に何時しかなりぬ 病院の緑の園に鳩のえさはむ

風かほる五月の窓をゆずるかな

5月1日

検温器くわへしベッドに朝日さす緑目にしむ心地良き朝

5月2日

恋病みし寝床かはりて五月かな

ハイアミン液浸したるがーざにて乳一つなる傷の胸うつ

退院の日の近づきて苦しみはいや増すばかりおろかなる我

5月3日

寝苦しき夜の明けぬれば新緑の心地よき朝我を迎ふる

退院を友に知らすを気づかひぬ友より後に手術せし我

振り返へり振り返へりつつ手をあげて夫わたり往く采女橋かな

采女橋見送る我に手をあげて振り返へりつつ夫かへりゆく

5月5日

病院の窓にも小さき鯉のぼり

パイナップル重きをあげて振り返る帰へりゆく夫我送るとき

夕暮はふと悲しくてなげれ来るトランペットに過ぎし日を追ふ

あきらめし恋にはあれどたそがれのトランペットに我が胸うずく

薄黄なるスポーツシャツののぞきたる白衣の医師は若くすこやか

5月6日

七人の子等すこやかに育てたる母なる人の幸せをみる

会ふことはなきとあきらめいし人に呼び止められし嬉しき日かな

両手より両腕にぎり我が腕の浮腫ためしみる君のかいなよ

君の手が我が両腕をしっかりとつかみて浮腫をしらべ給ひき

両腕をしっかと君につかまれし浮腫の検査に我が胸さわぐ

5月7日

退院のきまりし朝は何となく落ち着かずしてベッドにもぐる

5月13日

日焼けせし老女等の群駅にみし日雇婦らの遠出なりしか

5月14日

我が夫のひどくいたみし靴底に詫びる気持ちで靴みがくなり

おろかしき人間なればあやまちのいくつかあらん君責めまじき

5月17日

あどけなき少女の如き面差しの母おさな子に乳あたへおり  北千住行き地下鉄にて

我が胸のつかえのおりし心地かな十日振りなる君をみしとき

何気なく左手首をつかみいき ただそれ丈の君忘れまじ

何となく面やつれせし君なりき病のあとの残れる如く

今一度会いたき人に三月後に来よと云はれて悲しかりけり

雨すでに止みたる如し悲しみを何か残してもの思ふ夕べ

5月18日

片足で立つ吾子哀し両の足使ひて歩く日は何時のこと

5月23日

砂浜に打ち上げられし魚のごと我眠るなり同じむきにて

6月2日

夫われの乳房一つを淋しと云ふ悲しみの更にひろがる夜半

忘れ物せし吾子もどり苦しげに水飲みており涙うかべて

7月30日

三時よと吾子我起こす約束の時間についぞ起きることなし

風しげく雨戸しめたる部屋に我眠るを吾子の起こしに来るなり

8月6日

右胸の奥にひそめる痛みあり 黒き不安は我を悩ます

8月7日

きず口を我いたわりてうすき夜具かけて眠りぬ海の家の夜

短歌 1968年

5月29日

バターをなめて 妹の死を 思い出せり いじらしきより 言わん方なし

7月12日

いたましき 妹の死を 思ふなり 二度目の盆の めぐり来れば

うどんげの花 松の鉢にみいだせり 不吉なることなきを祈りつ

うどんげの花 こたつにも 咲きにけり 障りなき事 神に祈りつ

11月19日

岐阜羽島 田んぼの中に超特急 停めた政治家夫妻の像みる

岐阜羽島 おらが国さの大臣は 超特急をたんぼに停める

11月20日

武庫川の流れを渡り 病む母のおわす病院 たずねる日かな

12月16日

我が母に奇跡よおこれと 祈りしに 甲斐なきことになりにけるかな

短歌 1967年 

5月20日

バナナ買いて 泪ぐむなり パラソルを さすも忘れて 吾妻橋渡る

稲荷町 なつかしきかな その昔 ここに生まれて ここに住みしを

どぶくさき 吾妻橋なり 過ぎし日に 祖母といくたび 渡りしかなと

5月21日

妹の墓参りせし 翌日に 夫と幼子 来る夢みし

バナナ買いて 泣きつつ渡る吾妻橋 パラソルさすを われは忘れし

妹の夫と幼子 訪ねきし夢見たるなり 墓参りせし翌日

バナナ買いて 涙あふれし パラソルを さすも忘れて 吾妻橋渡る

5月22日

妹の縫ひてくれたる格子縞のスカートはきて蒲田へ行きぬ

今ははや 形見となりし 格子縞のスカートはきて蒲田へ行きぬ

愚かなり 妹をはや失ひし 今となりてはかえすよしなし

5月24日

失いて知る 妹のいとしさよ 涙流さぬ日とてはなしに

5月27日

深紅なるバラ三輪の寄り添いて 一つの花の如くに咲けり

我が庭のバラ三輪 寄り添いて 一つの花に咲くぞうらやまし

三輪のバラ 寄り添いて 咲く様は 花簪の如く愛らし

三姉妹と 我は名づけし 我が庭に咲く三輪の深紅なるバラ

三姉妹と 我は名づけし 我が庭に 寄り添いて咲く 三輪のバラ

6月22日

年長の 我代わりたき思いかな 死に急ぎたる 妹よ許せ

幾たびも 涙の便り受け取りしに 我気が付かぬは 一生の不覚

妹の便り そこ此処にに置きて 今なお生きて おる如く思う

7月2日

妹に 面差し似たる少女立つ 物資欠乏の時代を思ふ

7月13日

新盆に 妹に会ふ夢みたり もの言わざれど いとしかりけり

生きてたのと 我妹の肩抱きぬ 新盆の日にみたる夢かなし

定めとは 思へどかなし 妹の散りたる若き 命思へば

8月28日

我がバスに 乗り込みて来し 妹の 肩しっかりと抱きし夢かな

墓参りせぬ 我を誘いに来るかな 昨夜みし夢 妹の夢

オーシイツク 鳴きいだしたり 妹の昨夜の夢を思いおるとき

10月16日

胸痛む日の多くして秋深し

秋くれば妹恋ふる日のつづき

10月19日

秋深し 妹恋ふる 日の多く

12月20日

ながゆえに 死に急ぎたるか 妹よ 姉の嘆きも 今はむなしき

母のこと

大正10年(1921年)11月25日に生まれた母。父は洋画家、風刺画家、漫画家の池田永治、生まれたのは現在は台東区の稲荷町、少女時代を過ごしたのは文京区の駒込、四人姉妹+末弟の長女。母親はお姫様のような人だったそうで、爺やに婆や、書生がいて、お手伝いさんは何人もいたそうだ。

母はとても奇麗で聡明な子供だったから、両親や祖母や、周りの大人に大変可愛がられて育ったらしい。いとこたちからきれいなタカさんと呼ばれていた母。96歳で逝ったときも綺麗だった。

美しく、個性豊かな母はいつも私の自慢だった。おばあさんになっても、母は特別だった。だから私は90を越えた母を何度もドイツに連れて行き、友人みんなに自慢した。

母を失ってから、私は愛する人がいない人生がなんとつまらないものか実感している。話をする相手、食事を作る相手、一緒に旅をする相手、世話をする相手がいないことは、なんとむなしいことか。

私はいつまで生きるのだろう。